随筆集
・・・・・わがこころの   
        旅・・・・・



 作品群;
 ぬかるみ・安眠・匂い・小型・再認識・お洒落・顕微鏡・超新星

 ぬかるみ

 些細な疑問を軽い気持ちで解決しようとして、ぬかるみにはまることがよく
ある。百科事典や手持ちの書物をどっこいしょ、と机上に運んで調べていた
頃は限界があって見切りをつけやすかった。今はインターネットを利用する
から、解らない専門用語や疑問は指先ひとつで検索、答えに行き着くことが
できる。ネットの情報が新たな興味を引き起こさせ、枝葉のように際限もなく
広がることも、ままある。

 日曜洋画劇場を見たあと、次週のSFX映画の予告があった。わたしはSFX
映画大好き人間なのだ。
「しかし、ちょっと待てよ。昔はSF映画と言っていたよな。Xってなんだ?」
それらしい英単語を思い浮かべるがXで始まる、または途中にXを含む単語
で、意味の通るものを思いつかない。もともと英語彙に乏しいこともある。

 インターネットに曰く。
「SFXとは特殊撮影を意味する略語。英語のSpecial Effectsが語源であり、
英語の場合は、SpFXと標記するのが一般的である。映画評論家・中子真
治著『SFX映画の世界 CINEMATIC ILLUSION』(1983年)のタイトルに用いら
れて以降、一般に広く使われるようになった。」
 しかしこれでは不満が残る。「Special Effectsが語源」にXの文字が見当た
らないからだ。
 例えば、no.(ナンバー)は英語のnumberだが、oの文字はどこにもない。そ
れはラテン語numeroを語源とするからである。であればEffectsの語源にX
があるのかもしれない。これはついにネットで回答を見出すことができなか
った。あとは自室の本箱で埃をかぶっているであろうCOD(コンサイスオック
スフォードディクショナリー)をめくる以外にない。これにはラテン語やイタリ
ー系語源が解説されている。CODで見出せなければ、ネット「知恵蔵」で質
問しよう。「知恵蔵」は最後の手段である。

 CODを引っ張り出す。なんとも懐かしい。老眼の入りかけた目に少し単語
はちらつくが、数十年まえの自分の姿がそこにある。Effectsでは語源的な
説明はない。Effectsはef+fectであろうと見当をつけ、efを引く。そこでわが
意を得る。ef=pref. L.ex 、つまり「ef」は接頭語でラテン言語のexなのだ。
中子真治氏はタイトルにそこまで考えたのだろうか。考えたからこそSFXな
のであろう。

 わたしがSFXに違和感を持ったのは、「SF映画」という表現に慣れていた
からである。SFとはSan Franciscoの略ではない。Science Fictionの略で、
科学的な作り話という意味だ。

 父に連れられ生まれて初めて観た映画がSFで、「ゴジラ」だった。空想の
怪獣、ゴジラの東京襲来を衝撃的に描いた日本初の特撮映画で第一作は
昭和29年11月3日公開。わたしが5歳のときである。社会背景は、朝鮮戦争
終結(昭和28)、死の灰事件(同29)、自由民主党結成(同30)。「ゴジラ」に4
年遅れNHKーTV開局。

 「ゴジラ」を観て5歳のわたしが喜んだのか、父も好みの映画だったのか、
「ラドン」「アンギュラス対ゴジラ」「宇宙戦争」と毎年のように連れて行っても
らった。年の瀬には必ずと言っていいほど、この種の映画が封切られたの
である。「ゴジラ」は日本映画史上の古典的名作の一つに数えられている。
名作に数える側には多分に郷愁があると思われる。

 ところで、SFXはSF(Science Fiction)+Xでないことはわかった。。Special 
Effectsは特殊効果という意味で、慣れ親しんできた「SF」とは意味を異にす
ることも。SFの時代は終ったのである。終りはしたが、わたしのこころにはい
つまでもSF時代は存在するのである。

 ここに新たな疑問がわたしの頭をもたげる。SFはScience Fiction 。SFXは
Special Effects。両者は釣り合っていない。Fictionと Effects。SFは単数で、
SFXはEffectsと複数形である。それはなぜか。
 今度はぜひあなたにぬかるみにはまってもらいたい。


 安眠

 わたしのベッドは南向きの窓に寄せている。つま先は東を向いているか
ら、カーテンを開けると東の空が見える。正確には南東の空だ。
 眠るころ冬季であれば、オリオン座の全容が冴えた天空に輝いている。窓
から顔を出すと天頂におうし座のアルデバランやヒアデス星団、左手にはぎ
ょしゃ座が六角形に威勢を誇張するかのように広がっている。オリオンはい
つ見てもきれいやなあ、と瞼に刻みながら眠る。
 髭もじゃの半世紀以上生きてきたおじさんにそぐわない、いい夢を描いて
眠りについているのに、毎朝、時間を計ったように五時半、トイレに行きたく
なって目が覚める。どんな夢を描こうと歳は歳なのだ。
 このごろ、肩が冷える

 オリオン座と語る


匂い

 病院には病院独特の、しかもどの病院でもよく似た匂いがある。それは大
きな病院であればあるほど、似かよったものとなっている。鼻にツンとくるア
ルコールでもなければ、ビタミン注射のあのどろりとした茶褐色臭でもない。

 ラーメン店に入ると、豚骨の脂っぽい匂いがまず鼻をつく。たまに入るから
それは店を演出するものとして、決して不快感を与えない。ツーンと鼻につ
いた方が旨い店であるような気にもなる。しかしわたしが店の従業員で、毎
日あの匂いを嗅がねばならないとしたら、七日めにはきっとヘド吐いて、店
を辞めるであろう。

 医者も看護師たちも病院独特の匂いに七日以上耐えている。さらに患者
は職業でもないのに、数週間も耐えている。耐えねばならぬという気構えも
なしに。きっと病気だからアノ匂いを感じ取れないのかも知れない。そう考え
たら、医者も看護師も入院患者同様、病気なのだろう。



 小型

 わたしはをいつもFM(フラッシュ・メモリ)を持ち歩いている。私用データは
すべてFMに書き込み、必要の都度修正を行っている。すでに使用領域は
220Mbとなり、不急のデータはパソコンに移動しなくてはならない時期にき
ている。

 220Mbといえば、一昔まえの四角いFD(フロッピィー・ディスク)のおよそ
200枚分で、それだけのデータがワイシャツの胸のポケットに収まっている。
それは特別奇異な現象ではない。5sもあるビデオ機器を背負って子供の
映像を撮っていたのが、今は女性でも片手で操作できる二百gほどのハン
ディさだ。

 音楽を楽しむためだけなら、マッチ箱サイズのプレイヤーがある。小型軽
量化は普及に拍車をかけ、普及は価格低下につながりさらに普及してい
く。しかしどのように小型化が好まれても最小値はこのFMまでだろう。これ
以上小さくなるとカメラであれ、ラジオであれ、テレビであれ操作性が損なわ
れることになり、却って実用に不向きとなる。
 わたしは小型化の究極の形を持ち歩いているのだと思っている。



 再認識

 わたしに英語を教えたのは父である。
小学校の卒業記念に英和辞典を貰ってきた。それを解説したのが父であ
る。誰よりも早く英語というものを知った、という優越感からわたしは英語に
興味を持った。そして自ら勉強する気持ちができた。

 父はもうひとつ、わたしに貴重なことを教えてくれた。タイプライターの打鍵
である。2週間も訓練を受けただろうか。わたしはアルファベットをブラインド
タッチですらすら打てるようになった。それは今も活きている。打鍵の早いこ
とは文章を打つのに重要だ。イメージを忘れる間もなく素早く記録できる。
一つひとつキィーを見ながら打つのでは詩も随筆も書けたものではない。イ
ンターネットさえ利用できなかったろう。その以前にワープロもパソコンもわ
たしから縁遠いものとなっていたに相違ない。

 わたしが長男に小学生の頃から英語を教えたのも、パソコンをあげて慣
れるように仕向けたのも、わたしの考えやアイディアではない。わたしは父
の真似をしただけだ。

 インターネットを利用するようになって誠に便利になった。知りたいことの
大半はこれでわかる。わたしよりインターネットの利便を享受したのは長男
であって、かれは大学の殆んどのレポートをインターネット記事の寄せ集め
で済ませた。尤もかれに言わせれば寄せ集め、ひとつの「論文」に繋ぎ合
わせるのも才能のうちだとか。

 わたしがインターネットを使えるようになったのは長男のお蔭である。その
長男がインターネットの専門家になったのは、言うに及ばずわたしのお蔭で
ある。だからかれはわたしに大きな顔はできないはずで、このことはいずれ
きっちりかれに再認識させねばならない。



 お洒落

 頭髪に白いものが混じってきた。それは数年まえからのことだった。気に
留めないで過ごしてきた。
 白髪も成長するもので、全体の列を乱しぴんと抜きん出ていて、髪に櫛も
入れていない、と思われるのは嫌だから鏡に向かって引き抜いている。鋏
で切るほうがよいのかも知れないが、鏡を見ながら切るのは難しい。
 わたしより2歳年上の親戚のHは数十年来、鬘(かつら)を使用している。鬘な
しのかれをみたことはない。見たい。毎朝鬘を本物と見分けがつかないよう
にセットするのには時間がかかることだろう。それに出費も馬鹿にならない
はずだ。
 わたしは白髪だらけになっても頭がぴかぴかになっても、染めたり鬘にし
ようとは思わない。なるがまま、自然のままでいい。若いころから頭髪には
まったく無関心で手入れなどしたことはないし、父も禿ていたので、わたしも
きっと禿るにちがいない。ただ、禿ると寒暖に敏感になるだろうから、帽子は
被ろうと思う。お洒落な帽子を被ろうと思う。



 顕微鏡

 わたしは顕微鏡を2台持っている。1台は就職後すぐだから40年ほど昔に
買ったことになる。当時としては市内で唯一のデパートで買ったもので、陳
列されている倍率最上級のものを6万円ほどで買った。当時、月給が2万7
千円だったので、2か月分をはたいたのだ。倍率は最上級の1500倍まで可
能だから、決して高い買い物ではない。

 値段のいいのはNICONに決まっている。それは200倍程度のものでも手
が出ない。わたしのはVICSEN。素人が趣味で覗くには十分すぎるにちがい
はなかった。

 星座観察会が九州の屋根、久住山の麓で催しされたとき、わたしは
NICONの双眼鏡、幾人かはVICSENの天体望遠鏡を持って来ていた。かれ
らは口々に望遠鏡はVICSENがいい、と話しを弾ませていた。わたしは「望
遠鏡だってNICONがいいに決まってるさ」と冷視した。
 
 これほどわたしがNICONを崇拝するのは、その起源を45年以上まえに遡
らなければならない。当時、戦時中に沈められた艦船の引き揚げ、その頃
は船の引き揚げだの不発弾の撤去だの機雷の処理だの、よくニュースで取
り上げられていたものだが、引き揚げられた艦船からNICONの双眼鏡が発
見されたことがあった。それはレンズも曇らず内部に海水も入らず、覗けば
くっきり遠方が見渡せた、と報じていた。硝子は落とせば割れる、どんなも
のでも水中に入ると水浸しになる、と信じていたわたしはその緻密な技術力
に感動した。

 「NICONとAIWAは世界に通用するんだ。AIWAは艦船や潜水艦で使われ
ているマイク、スピーカーなどの音響設備だ」
物知りの友人が言った。その日からわたしの極上品にAIWAが加わった。

 顕微鏡は接眼レンズと対物レンズの組合わせで50倍から100、200、500、
千、1500倍と倍率を変えられる。光学顕微鏡ではたとえ、NICONであっても
光の周波数との関係で1500倍までしか出せない。それ以上は電子顕微鏡
の領域である。尤もNICONであれVICSENであれ、1500倍で観察するのは
至難の業である。レンズの口径が小さいため光量が十分得られず見えにく
い。そのため反射鏡から得られる光を最大限に活かせるよう絞りを絞った
り、うまく対物レンズを通るように調整が難しい。より多くの光を通すために
被検物質を薄く切る作業も慣れないとできないことだ。

 何度転居したかわからないが顕微鏡だけは、運送会社に任せず、割れ物
を運ぶように細心の注意を払い自分で運んだ。それは半世紀近い歳月を
経て、わたしの部屋のドライボックスに収まっている。

 もう1台は最近の購入である。顕微鏡は接眼レンズと対物レンズが備わっ
ているが、それには接眼レンズがなく、覗く場所は小振りの蛸の頭のように
つるりとしている。パソコンに接続しパソコン画面で観察する。パソコンに保
存し、印刷も写真画像と同様パソコンから出力する。

 すでに顕微鏡を持っているのだから、あとのは買う必要のないものだっ
た。しかしパソコンのパンフでそんな顕微鏡があることを知り、無性に欲しく
なったのである。パンフを見た日から数日後にはわたしの手元にあった。メ
ーカーはMattelとあり、日本製なのか外国なのか、それすら判然としない。

 天体を観る双眼鏡とミクロを観察する顕微鏡。才色兼備というべきか、わ
たしはどれほど有能な研究者になっていたかわからないのである。



 超新星

 太陽の寿命は残りおよそ50億年らしい。50億年たつと、太陽は地球や木
星までをも呑み込むほど膨張し、やがて爆発する。爆発した太陽を「超新
星」という。爆発し消滅したのになぜ「新星」なのか。宇宙の果てから観察し
ていると、今まで星がなかった、あるいは暗い星が急に大きく輝き始め、ま
るで、新しい星が生まれたかのように見えるからだそうだ。

 爆発による大量のガスや塵が星雲となり、互いの質量で引きあう。そして
何十万年もかけて新たな星に生まれ変わる。太陽(恒星)の爆発は新しい
星の誕生でもある。

 アマチュア天文家は彗星や新星を発見し、自分の名前を付け知名度を上
げることに精を出している。日本にも多くの発見者がいて、ホームページに
発見に至る経緯を詳しく書いている。かれらは新星がよく出現する天の川
あたりを1か月に数回撮影し、チェックしているのだそうだ。そういう人たちの
ことを天体捜索家といっている。わたしはいくら星に魅せられても天体捜索
家にはなりたくない。捜索って言葉が好きではない。

 急に明るく輝き始める星がすべて新星かというとそうではない。そうではな
いことの方が多い。「変光星」というのがそれであって、周期的に明るさを増
したり暗くなったりを繰り返す。明るくなったときを「超新星」と誤るのだ。

 一番古い超新星の記録は、鎌倉時代初期の歌人で新古今集や新勅撰集
などの選者「藤原定家1162〜1241」の「明月記」にある。
 ー 後冷泉院・天喜2年4四月中旬以後の丑の時、客星觜(すい)・参の度 
   に出づ。東方に見わる。天関星に孛(はい)す。大きさ歳星の如しー
「天喜2年」は十円玉に刻まれている平等院鳳凰堂が建てられた前の年。
「4月中旬」は他の書物と比較研究で、5月中旬の誤りとされている。これは
閏月ではなかったか、と定家をかばいたいところだが、閏月であったという
証明がわたしにはできない。「客星」は通常でない一時的な天文現象で、今
でいう超新星又は彗星その他発光を伴う気象現象などを含む幅の広い意
味に使われていたらしい。「觜」はオリオンの頭の付近にある3つの星のこ
と。「参」はオリオン座のベルトに当る三つ星を中心とした四角の部分を指
す当時の星座名。「天関星」はおうし座のことで「歳星」は木星である。つま

 ー 天喜2年(1054)、5月11日から20日の間の夜中に、超新星又は彗星が、
   オリオン座の東に見えた。おうし座付近で大きさは木星ほどだったー
ということになろうか。中国の宋書天文史・客星の項目にも同じような記述
がある。それによると、客星は23日間昼間でも見え、22か月後見えなくなっ
たということである。

 それは577光年もの宇宙を旅して現在(いま)も夜空に輝いている。かに座
の甲羅に位置するプレセベ星団がそれである。

 太陽も爆発後短くとも数か月は他の天体の知能生物が驚くほど輝くであ
ろう。あるいはかれらは記録するかも知れない。
 ー 数千光年離れたおとめ座付近にある天の河銀河の端に位置していた
小さな星が消滅した。それは一瞬のことで、記録するには値しない ー
と。








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