3.初代名人としての独占手記

 2000年3月、仕事の関係で6年問住み慣れた別府を離れて大阪に住むことになった。しかし、別府での温泉生活が忘れられず、別府の田の湯に住宅と車は残すことにした。

 3月24日(土)の夕方、北京から帰国したばかりで、当初は3月25日(日)の夕方の飛行機で大分に向かおうと思っていた。しかし、温泉道に関するイベントに何らかの形で協力したいと常日頃から考えていたので、翌日は、少し無理をして5時30分に起床して、大阪・伊丹空港8時20分発の飛行機に乗ってしまった。明響温泉の湯の里での別府八湯温泉道湯遍路の歴史的な出発式に参加するためである。別府に着いて、最初にしたことは、温泉本の購入であった。別府駅構内の書店で、とりあえず3冊ほど買い求めた。明響温泉では、14時開催のイベントまで、空き時間が出たので、鶴寿泉、地蔵泉、岡本屋山の湯に何となく入ることにした。当日は、あいにくの雨だったが、湯の里の会場には、多数の関係者が集まった。最初は、あくまでもAPUの学生湯遍路のサポート隊として参加したつもりだが、みどり荘や山田屋旅館で主人から宿の由来や温泉の成分などを拝聴している内に、ライフワークとしている別府八湯の歴史などを、湯遍路をしながら調べるという本能がうずいてしまった。

 元々、旅と温泉が大好きで、大学の卒論は温泉地の研究であった。この20数年間、研究と趣味を兼ねて世界や日本の温泉地や観光地に出向いていたが、今回、別府において、温泉道という企画が始まり、益々温泉の虜になってしまった。最初の目論見は、1年間位かけて、ゆっくりと回ろうと思っていたが、APUの学生湯遍路のサポート隊として、入湯を繰り返している内に、この分では、湯遍路と同時に88ヶ所を征服できると確信するようになった。スタートから4日目のことである。もう一つの理由は、APUの学生である夏目君と山賀さんが、自分の息子と同世代であったことも見逃せない。「息子にしてあげられないことを、彼らに…」と言う思いも大きな支えとなった。しかし、最初の内は、この1週問での制覇は考えておらず、用事などで中抜けして、湯遍路コースの温泉には入湯しないことが多々あった。

 88ヶ所制覇を意識した時、今度は時間不足に気づき、時間と戦うことになった。しかし、夜は5日間連続で19時から21時過ぎまで温泉文化研究所の会合があり、自由が効かない。そこで、会議終了後の21時以降とか早朝入湯を実行することとなった。一番困ったのは、温泉施設の営業時間である。いずれも営業時間が異なっており、最後の2日間は、鉄輪と別府の間をそれぞれ2往復もしてしまった。

 いずれにしても温泉道は、楽しくて有意義な企画である。湯遍路の飛び入りのサポート隊(一般の人)、温泉施設の番台の人、入浴中の人、道中や街中の人たちと、温泉に関する話がずいぶんと弾んだ。温泉道を通して実感したことは、温泉道は、街歩き同様、交流と触れ合いの場になるということである。これは、この先10年、100年と末永く続く文化となろう。

 最後に、今までの旅人生で、自分の好きな言葉を書き記してみよう。「旅が好き、街が好き、人が好き、そして湯が好き」