鉄輪(かんなわ)」の地名の由来については、諸説ありますので、
以下いくつかご紹介させて頂きます。



「豊後国風土記によると河直山とある鉄輪も、鎌倉時代に編まれた『豊後国図田帳』には鶴見加納となっている。つまり火男火売(ほのおほのめ)神社の御神領地であった鶴見十五町に、新たに加わった新規開墾地と思われる。方二キロにわたり白煙もうもうと立ちこめる荒無地であった鉄輪の地は、農耕地としては比較的に開発が遅れたのであろう。

 加納が鉄輪に変わったのはいつのことかわからないが、おそらく時宗系の湯聖たちが、仏教的な解釈のもとにこのように置きかえたものと思われる。時宗が宗勢拡張の方便として大いに伝播した六斉念仏の演目の第一は"念仏発願"であり、ついで"鉄輪" "四季" "四つ太鼓"とつづいている。神前の場合は"鉄輪"を第一に念仏・四季の順で行われる。このように鉄輪という演目は六斉念仏中で主要なものであったらしく、鉄輪の語源もまたここらにあったのではなかろうか。」


「別府温泉史」別府市観光協会編著(いつみ書房1963年)



「"鉄輪"(かんなわ)という地名の発生については豊後風土記に玖倍理湯の井が"郡の西、河直山の東岸にあり"というところから河直が"かんなわ"に転化したという説などもあるが、別の説では鎌倉時代の豊後図田帳に"鶴見加納"とあるところから"加納"が"かんなわ"の始まりだとする説...。」

「別府今昔」是永勉著(大分合同新聞社1966年)



「こどもの頃、じいさんに聞いた物語です。

■ 昔々、一人の修験者が通りかかって、日も暮れかかって、一軒の家に一夜の宿を乞うた。里人は、親切に修験者を泊め、ささやかながら夜の食事も差し上げてもてなした。翌朝、修験者は立ち去るとき、持っていた錫杖をさかさにして、地面を突くと、不思議にも温泉が、こんこんと湧き出した。里人たちは、喜び感謝して、あたりの土地を錫杖の先についている鉄の輪にちなんで「鉄輪」―「かなわ」と呼ぶようになったが、いつの間にか、言いやすいように「鉄輪」を「かんなわ」というようになったそうな。

■ 里人が、円内坊という悪僧に、ふだんから無理難題を吹きかけられて、難儀していることをうったえて、修験者の法力で、心を入れ替えるように言い聞かせてもらえまいかと、お願いしたところ、こころよく引き受けて、円内坊のところに出かけてくれた。修験者が力をこめて、円内坊にその悪業をやめ、里人に優しく仏道を説いたが、いっかな聞こうとしないので、とうとう生き埋めに してしまったそうじゃ。その円内坊の怨念がふきだした地獄が泥の地獄で、丁度坊主の頭のようにみえるので「坊主地獄」と呼ぶようになったんじゃ。」


鉄輪在住の方からお聞きしたお話



鉄輪のいわれ

鉄輪旅館組合からのリンク